【サイゼリヤ】多くの人が好きなものを否定すると叩かれる【嫌いなものを嫌いと言えない時代】

コラム

定期的にTwitter上では「サイゼリヤにデートで行くのは有りか無しか?」という不毛な議論がかわされる。もう何度も見かけた論争だ、少なくとも3回は見てる。

大体が何かしらの理由でサイゼリヤを否定するツイートをする人がいて、それが大炎上して論争が再開するのが主な流れだ。

なんでサイゼリヤ問題はここまで炎上するのか。その本質は「嫌いなものを嫌いと言えない時代」だからだ

好きを否定されるということ

否定的な意見はネガティブな感情を増幅とさせるものだ。誰々が嫌い、この食べ物が苦手etc…ネガティブな意見はネガティブな感情を呼ぶものだ。

サイゼリヤが好き!と言って炎上することはない。それで炎上するならその人自体がもともと嫌われていたりしてに何かしらの問題がある。

しかし、サイゼリヤが嫌い、サイゼリヤに行くなんて…と否定すると炎上する。その根本にあるのは「好き」という感情を否定されることだ。

自分は大好きなもの、例えば芸能人、食べ物、なんでもいい。自分の好きなものが否定される意見を見ると「イラッ」とした感情が自然と生まれる。この原因は自分が好きなもの、自分が「肯定」しているものを否定されたからだ。

それは価値観を否定されたような気分になる。直接的な言葉でいえば「今日彼氏と初デートだったんだけど、サイゼリヤで最悪ー」というツイートを見かけたとする、するとサイゼリヤが好きでデートで行った経験がある人にすれば「サイゼリヤにデートで行くお前は最低だ」という個人攻撃のように感じてしまうせいだ。

ツイートの内容にもよる、これが「サイゼリヤにデートなんて行く人は最低だ」と対象が大きな言葉なら攻撃されたように感じてしまうのはおかしくない。しかし、対象が個人的な彼氏だったり友人だったりに対してのツイートなのにもかかわらず、それを自分に置き換えてしまう人は現代日本ではかなり多い。

サイゼリヤは価値観の塊

ここでどうしてサイゼリヤ問題が頻発するのかを考えてみる。サイゼリヤは多くの人に愛されるイタリアンファミリーレストランだ。日本に住んでいてサイゼリヤに行ったことがない!という人は若者では特に少ないはずだ。

若者だけでなく多くの人に愛されているファミリーレストランだ。しかし、ファミリーレストランで低価格帯のお店だからこそ、そこに「価値観」がつきまとう。

人によって価値観は違う。私個人の考えとしては私は初デートにサイゼリヤを選ぶことはない。やはり男として少しは好きな人に見栄を張りたい。いい大人なんだし、少しいいお店だったり、美味しいと評判のお店に行ったりするだろう。

これはあくまで私の価値観だ。だが、そんな価値観のもと「サイゼリヤで初デートは有りえない」などと行ったら炎上してしまうかもしれない。

別の価値観を持つ人も多くいるからだ。別に初デートでサイゼリヤでもいいじゃないか、安くていっぱい食べられて長居できるし、いいお店で緊張しながら味のわからないフランス料理を食べるよりは全然いい、好きな人とならどこでもいいという考えの人も多くいるだろう。

年齢によっても違うはずだ。10代の学生ならサイゼリヤで初デートなど微笑ましいものだ。私の価値観でも10代の学生ならサイゼリヤで初デートは全然有りだと思う。

しかし、TwitterやSNSは年齢は基本的にはプロフィールなどに記載しない限りはわからない。いろいろな価値観の人が、いろいろな性別の人が居る。だからこそ「価値観」のぶつかり合いが起きる。

多くの価値観の人が集う場所、そしてそれが「文字」による媒体だからこそ、冷たく感じてしまうときもある。それが自らの価値観を否定された気持ちにも繋がり、結果的に炎上する。

多くの人が好きな物を嫌いと言える勇気

サイゼリヤは多くの人に愛されているお店だ。それだけ多くの人の価値観に肯定的に受け止められている。サイゼリヤだけでなく多くの人に愛されているものを否定すると、それだけ反論されてしまう。だからサイゼリヤは論争のもとになる。

これがサイゼリヤだからこそTwitterでの論争のみに収まっているが、もっと根本的な価値観のものを否定するとなると大きな炎上どころか戦争に発展する。

例えば特定の国が信仰している宗教を別の国が否定すれば戦争のもとになる。それだけ「価値観」というものは聖域だ。

だからといって「嫌い」と言うなというわけではない。「嫌い」というのは大切な個人の価値観だ。それを発信することも価値観のうちだ。それを否定される故はない。

ただ言葉は選ぶべきだ。主語や対象、使う言葉1つで印象は大きく変わる。日本語は特に複雑だ、複雑なものだからこそ正しく伝わらないこともある。

共感時代

今は多くの人が「共感」を求めてる。SNSが発展しYouTubeやTiktokなどが発展したおかげで「承認欲求」に狩られている人が多い。誰かに自分を、自分の価値観を認めてほしいと思っている人は多い。だからこそ「発信」している。

そんな共感時代だからこそ「否定」する発信は危険だ。私も多くの人が好き、面白いと言っているような作品の「酷評レビュー」を投稿することがある。あくまで私がそう感じて、そう思ったからこその酷評だ。

しかし、その作品を好きな人にとっては自分の価値観を否定されたような気持ちになり、荒れたコメントであふれかえることもある。

だが、それでも私の動画を見てくれる人が大勢いる。それは私が最低限の「ルール」に基づき、言葉を選んでいるからだ。

他人の価値観を否定するな

「価値観」というのは聖域だ。その人が面白い、美味しい、素敵だと思う事、私はそれ自体を否定したことが今までに一切ない。

私が面白くないと感じたレビューを書く。その中にその作品自体を否定するような言葉、下げるような言葉は多用するが、その作品をみて面白いと感じた人のことは絶対に否定しない。例えばではあるが

「この作品を面白いと思ってる人はおかしい」
「この作品を面白いと感じる人はこういう価値観をもってる人だ」

というような、その作品を面白いと感じる人の価値観という聖域を犯すような言葉は絶対に使わない。だからこそ私は酷評も絶賛もする。

これはアニメに限らずだ。いろいろな価値観があっていい、価値観の違いで対立することはあるかもしれない。しかし、その人の価値観を否定することはしてはいけない。

人が好きなものをその人ごと否定してはいけない。それをしてしまえば炎上どころか戦争だ。自分の感性、価値観を否定されたくないのは同じだ。だからこそ、他人の感性や価値観を否定しない。

自分と違う角度の価値観を盛ってる人は貴重だ。私の自分が面白いと思った作品のレビューに対して「私は楽しめませんでした」というコメントを貰うこともある。だからといって「この作品を楽しめないなんて残念な価値観なんですね」などと言わないし、同時にそう思ってすら居ない。

他人に意見を真に受けるな

ネット上の意見など所詮は他人の意見だ。そんな他人の意見をすべて飲み込む必要もないし、すべて反論する必要性もない。貴方がそう思うならそれでいい、私はこう思っている。そういう確固たるものが必要だ。

しかし、現代社会ではそれが難しい。みんなが自分の価値観の正しさを振る舞わし、バチバチに争っている。これもSNSや動画サイトの弊害だ、承認欲求の行き場を失っている人が多いからこそ、多くの人が価値観という聖域を互いに踏みまくっている。

本来はそこは不可侵の領域なのにと、私はこういう論争を見かけるたびに嘆いてしまっている。

4℃

同じような論争でクリスマスの時期になると「4℃」のアクセサリーを彼女に送るなんてありえない!みたいな意見が多発する。発言の多くは夜のお仕事をされている方だ。

夜のお仕事をされている方はよく客から「4℃」のアクセサリーをもらうらしい。クリスマスの時期になると大量の4℃否定意見とメルカリへの4℃アクセサリーが出品されるのはもはや風物詩だ。

しかし、別に4℃が悪いわけではない。多くの人に愛されているブランドであり、結婚指輪に4℃を選んでいる人もいる。そういう人たちを丸ごと否定するようなツイートも多い。

これも対象にする言葉が抜けている。自分は4℃のアクセサリーをもらっても嬉しくない。これなら炎上しないが、主語や対象が抜けているせいで多くの人の価値観を否定してしまっているからこそ、サイゼリヤと同じく4℃論争も勃発してしまう。

確かに4℃のアクセサリーは若い子向けのものだ。20代後半や30代を超えた女性がつけるのにはちょっと若すぎる印象があり、そういう年齢層の人がもらったり、自分の趣味と合わないものをもらってしまったことで否定する人もいるだろう。

結論を言えばサイゼリヤで初デートでも良い、4℃のアクセサリーをクリスマスプレゼントに送ってもいい。それで本当に「喜んでくれる」相手がいるほうが幸せだ。

ただ事前に相談は必要だ。サイゼリヤでいいか、4℃でいいか。そこも価値観のすり合わせは重要だ。その価値観が合わなければお付き合いしないほうが良い。金銭感覚、味覚、このあたりの価値観のズレが有る人とは付き合うどころか結婚など無理な話だ。

ちなみに私は妻との初デートこそサイゼリヤではないが、その後のデートではよくサイゼリヤでご飯を食べた(笑)
5000円分サイゼリヤで食べるなんて目標を決めてお腹がいっぱいになりすぎてベロベロになったのはいい思い出だ。それを喜ぶ価値観の妻だからこそ結婚している。

ネット上の他人より、そばにいる人と価値観が合えばそれでいい。サイゼリヤ論争も4℃論争も不毛でしか無い。

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